自分の無意識と他人の感覚
2008年5月23日私は昔から兄に 「ものの言い方がきつい」「一事 余計」といわれ、「そんなんじゃ社会に出ても無理だ」と言われ続けてきた。
実際 旦那からも周りからも言われたことが何回もある。
その中の3分の1は自覚はあるのだが、残りの3分の2は自覚もなく指摘されても分からない時もあるほどだ。
昨日 田舎の知人から電話があって話してるうちに、逆切れっぽく電話を切られてしまった。
話の流れで自分では認識してなくて無意識のうちに言ってた言葉が、相手にとって自分を否定されてるみたいで嫌とのことだった。
ちゃんと言い訳をしようとしてるときに旦那の携帯がなって慌ただしい中「ごめん じゃ また」と電話を切られてしまった。
言われれば「う〜ん そういや 合図ちみたいな感じというか、しゃべりっぱなしの相手の話をいったん遮るために無意識のうちに使ってた」と分かった。
反省しなければとは思ったが、こちらからも言わせてもらえば、「そうなんだ〜。私は〜」とかいう言葉も入れない状態のまま相手がしゃべり続けてるから、どうしても割り込もうとするには短い言葉や単語になってしまうのだ。
その言葉というのが「いやぁ」だったのだ。
話の内容が内容だったから相手にとっては気持ちのいいものには感じれないだろうなぁ・・・とは反省した。
実際 旦那からも周りからも言われたことが何回もある。
その中の3分の1は自覚はあるのだが、残りの3分の2は自覚もなく指摘されても分からない時もあるほどだ。
昨日 田舎の知人から電話があって話してるうちに、逆切れっぽく電話を切られてしまった。
話の流れで自分では認識してなくて無意識のうちに言ってた言葉が、相手にとって自分を否定されてるみたいで嫌とのことだった。
ちゃんと言い訳をしようとしてるときに旦那の携帯がなって慌ただしい中「ごめん じゃ また」と電話を切られてしまった。
言われれば「う〜ん そういや 合図ちみたいな感じというか、しゃべりっぱなしの相手の話をいったん遮るために無意識のうちに使ってた」と分かった。
反省しなければとは思ったが、こちらからも言わせてもらえば、「そうなんだ〜。私は〜」とかいう言葉も入れない状態のまま相手がしゃべり続けてるから、どうしても割り込もうとするには短い言葉や単語になってしまうのだ。
その言葉というのが「いやぁ」だったのだ。
話の内容が内容だったから相手にとっては気持ちのいいものには感じれないだろうなぁ・・・とは反省した。
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